お茶の国しずおか

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6.お茶を学ぶ(歴史・文化・エピソード)

 ●お茶の歴史●

日本人とお茶の出会いは、鎌倉時代の頃。唐へ留学していた高僧たちが持ち帰り、お茶 の木を植えたのがはじまりです。静岡のお茶のルーツは、13世紀頃、聖一国師という 高僧が静岡市足久保に種を蒔いた…と伝えられています。 以後、今川氏、徳川氏と時の名将たちも静岡のお茶を珍重し、独自の茶文化も育まれま した。江戸時代には既に、芭蕉の句に詠まれるほどの名産地になっていたようです。 そして明治維新の頃、牧之原など各地で茶畑の本格的な開墾が始まり、以後静岡は全国 一の茶産地として今日に至っています。



(1)お茶のはじまり
お茶の発祥地は中国南西の雲南省あたりの山地と言われています。紀元前2700年頃の 書物「食経」に「茶を飲めば力が出て気分がよくなる」との記述があり、「神農草本」 という書物にも、「神農は百草を味わい、一日七十二の毒にあい、茶を得てこれを解毒 する」とお茶の薬用を説いた一説があります。太古の昔のお茶は、貴重な医薬品だった のでしょうか。「チャ」という言葉も広東語の「CHA」から伝わったものです。



(2)お茶の伝来
中世の高僧達が持ち帰ったお茶は、薬用から文化の主役と変化していきます。

 
栄西禅師「喫茶養生記」
1191年(鎌倉時代)に宋から帰国した栄西禅師は、臨済宗を伝えると共にお茶の種子を 平戸の地に蒔き、抹茶のルーツとなる製茶方法やお茶のたて方を人々に伝授しました。 有名な「喫茶養生記」の冒頭、「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」は、現代にも 通じるお茶についての名言です。秦の始皇帝の頃から求められてきた不老不死の薬は、 実は抹茶だったという説もあります。
静岡茶の祖、聖一国師
静岡にお茶を伝えたのは、静岡市出身の高僧聖一国師と伝えられています。栄西より 40年ほど後に中国に渡り、やはり臨済宗と茶を持って帰国しました。現在の静岡市足 久保にお茶の種を蒔いたのが、静岡茶の始まりとされています。
茶の湯文化
中世の日本では、お茶は薬用よりも文化として独特のスタイルを築いていきます。室町 時代の貴族達のお茶を飲み当てる「闘茶」から、茶室でのもてなしの形に発展し、「茶 の湯」という哲学的な世界が完成します。千利休による「一期一会」の精神文化は、そ の後の武士の時代へと受継がれ、今日も日本独特の美意識として高く評価されています。



(3)中世の静岡茶
戦国時代、すでに静岡のお茶は銘茶として高く評価されていました。


清見寺の茶
南北朝時代の「異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)」という書物に、清水市の清見寺のお茶についての記述があります。各地のお茶を当てあう「闘茶」に、既に「駿河 清見の茶」が優れたお茶だと記されています。当時の清見寺のあたりには、近畿の中央政府に反発する東国を監視する関所があり、観音信仰の寺として多くの人々が行き来していました。そのため、お茶の名前も全国的に広まったと考えられます。ただし、当時 のお茶は高級な抹茶で、現在広く親しまれている煎茶とは異なります。
今川氏とお茶
戦国時代、駿河路を支配していたのは今川氏です。特に氏親、義元の頃が文化も全盛でした。京都から今川氏のもとへやってきた公家たちによって、茶の湯や茶菓子の風習が今川館でも華やかに繰り広げられていたようです。静岡でお茶が栽培されるようになったのも、この頃からです。



(4)江戸時代の静岡茶

徳川家康御用達だった静岡茶。当時は身分の高い人は煎茶、庶民は番茶を愛飲していました。

年貢茶
戦国時代末期から江戸初期の頃には、静岡の山間部でお茶を年貢として納めていたようです。森町の史料に当時の記録があります。当時の農民は安い番茶を飲んでいたようですが、年貢用のお茶は、代官などの指導のもとで特別に作られていたと考えられます。 この頃から、自家用と出荷用のお茶を作り分けていたのでしょう。

家康とお茶壷屋敷
徳川家康は、静岡市の山間部井川を支配していた海野氏に命じてお茶を作らせました。これは抹茶のもとになる碾茶(てんちゃ)というものです。このお茶を高価な茶壷に詰め、標高千メートルを超える大日峠のお茶壷屋敷で夏を越し、秋になると駿府に運ばせました。当時の茶壷は名品ばかりで、後に徳川御三家の家宝になったとのこと。茶壷の預かり証は今も海野家に残されています。現在も当時をしのんで、秋に井川から久能山東照宮までお茶を運ぶ「お茶壷道中」が、毎年にぎやかに行われています。

芭蕉と静岡茶
「駿河路やはなたち花も茶のにおい」。香り高い花橘も、駿河の茶の香りのすばらしさにはかなわない…というこの名句は、1694年(元禄時代)5月15日、江戸からやってきた芭蕉が知人あての手紙に書いたものです。この句からも当時の静岡がすでに有名な茶産地だったことがわかります。この句は茶商人、山形屋庄八によって石に刻まれました。

足久保の御用茶
記録によると1681年(天和元年)に、静岡の足久保茶が幕府へ上納されています。こ のお茶は庶民には無縁の高級茶でした。やがて御用茶の役割が中止になると、このお茶の生産技術の伝承は途絶えてしまい、庶民の間では、ごく簡単な製法の日干し茶や釜炒茶が普及していきます。






(5)明治の静岡茶
本格的な茶園の開墾が始まり、新品種の開発や輸出もさかんになりました。本格的な茶産地静岡の夜明けです。

牧ノ原の開拓
幕末に、最後の将軍徳川慶喜と共に駿府に移住した旧家臣たちは、牧之原を開拓して茶園を造成する計画をたてました。当時、新時代の貿易品としてお茶が注目されていたからです。約200名が参加した開墾は困難を極めましたが、彼らが拓いた土地を地元の農民が受継ぎ、やがて現在の大茶園へと発展しました。大井川の豊かな水、温厚な気候といった好条件も茶園を豊かに成長させた要因です。

お茶の輸出と清水港の発展
1858年(安政5年)、日米友好通商条約が結ばれ、各地で貿易が始まりました。明治初 期の頃、お茶の輸出量は急激に増え、特にアメリカ向けに静岡、宇治などで高級煎茶が さかんに作られるようになりました。当時のアメリカでは、砂糖やミルクを入れてお茶 を飲んでいたようです。明治32年に清水港が開港すると、静岡茶が直接外国に輸出で きるようになり、それに伴って港周辺の街や交通網も大きく発展しました。

製茶技術・機械の進化
お茶の輸出がさかんになると、少しでも上質なお茶を高く売ろうと、茶師たちはこぞって技術開発に力を注ぎました。摘みとったお茶の葉をお茶に仕上げるのは農家の仕事で したが、新茶の季節はとても忙しくそこまで手が回らないため、この頃から製茶工程を 担当する茶師という仕事が定着しました。製茶機械にも改良が加えられ、静岡は生産量 、生産技術、品質共に揃った、日本一の茶産地へと発展していきます。

やぶきた種の誕生
明治末期に静岡で画期的なお茶の新種が発見されました。杉山彦三郎という人が発見した『やぶきた』です。竹やぶを開墾した時、試験園の北側のやぶの中に母樹があったので、 この名前がつけられました。樹勢、品質共に優れており、昭和28年に農林省の奨励品 種に指定されました。以後、煎茶の代表的ブランドとして今日に至っています。母樹は 県立中央図書館近くに移植され、県の天然記念物として保護されています。





■お茶の歴史年表

BC2780
814
1211
1241
1482
1587
1612
1681
1738
1869
1908

中国で神農が「食経」を著す? この頃お茶の木が発見される?
空海が中国から茶種を持ち帰る。
栄西が「喫茶養生記」を著す。
聖一国師が中国からお茶の種を持ち帰り、駿河国足久保に植える。
足利義政が銀閣寺造営。茶室のはじまり
豊臣秀吉が京都北野で大茶会を開催。茶頭は千利休など。
徳川家康が茶会用の高級茶を、駿河国井川のお茶壷屋敷に保存。
駿河国安倍足久保村から、江戸城へ御用茶を献上。
山城国永谷宗円が「蒸製煎茶」を考案。
旧徳川家臣たちが牧之原で茶園を開墾。
杉山彦三郎がやぶきた原種を発見。



 ●お茶にまつわることわざ、名言●

◆◆鬼も十八 番茶も出花◆◆
品質の劣る番茶も入れたてはおいしい。出花とはお湯を注いだ直後の香りのいいお茶のこと。
そんなに美人でない女性でも、年頃になればそれ相応に美しくなるという例え。

◆◆茶柱が立つと縁起がいい◆◆
朝入れたお茶に茶柱が立つと縁起がいいとされている。相場師や芸妓などに特に喜ばれた。
人に話さず黙っているとツキの効果が高まるらしい。

◆◆日常茶飯事◆◆
茶飯事はお茶を飲んだり食事をすること。何の変哲もない当たり前のことを指す。

◆◆お茶をにごす◆◆
一時しのぎに、その場をごまかして繕うこと。

◆◆茶々を入れる◆◆
邪魔をする、冷やかして妨げること。

◆◆茶腹も一時◆◆
お茶を飲むだけでも、しばしの間は空腹をしのぐことができる。

◆◆茶坊主◆◆
武家で茶道を司った者を指す。頭を剃っていたから茶坊主といわれていた。
権力者に媚び、その威厳を借りていばり散らす人を指す。
 
 

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